劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 感想

劇場版鬼滅の刃をレイトショーで観に行きました。夜のテンションで感想を書き殴ります。以下ネタバレ有り。


・映像美!雪の質感とか列車と一体化した魘夢の気持ち悪さとか炭治郎の無意識領域の美しさとか煉獄さんの最期とか諸々の映像がまだ目の裏に残ってる。映像化する意義を強く感じた。

・猗窩座のイントネーションは畳とか座敷とかと同じだと思って漫画の方を読んでいたら、ナスビとかタニシと同じだった。

・無限列車編ってVS魘夢とVS猗窩座を引っくるめての名称なのだけれど、猗窩座は無限列車に乗ってもいないし、終盤に唐突に出てきた感じがした(原作ではその辺はあまり気にならなかった)

・でも無限列車編で一番アツいのは煉獄VS猗窩座であるので、見方によっては魘夢がかませ犬なのかもしれない

・猗窩座、初対面であるにもかかわらず煉獄さんのこと杏寿郎っつってめちゃくちゃ馴々しくてウケる 鬼への勧誘もしつこい その激重感情なに?

・例えば禰豆子は切符を切られてないから眠らずに済んだこととか、炭治郎は魘夢に眠らされた瞬間に夢の中で自死して戻ってくることとか、そういうルールや法則の網をくぐり抜けて戦うのが自分はとても好きだなと思った。

・伊之助「俺が親分だ!」炭治郎「わかった!」

伊之助「いい考えだ!褒めてやる!」炭治郎「ありがとう!」

炭治郎、伊之助の扱いがうますぎる

・最近、進撃の巨人を読み直しているのだけれど、進撃の巨人は『エレン・イェーガーという絶対的な生物兵器を守るために他の兵士達を無駄死にさせるし、名前のないモブから名前のある重要人物までたくさんの人が死んでいることを読者に繰り返し思い出させる』構図であるのに対して鬼滅の刃 無限列車編は『物語のラスボス(鬼舞辻無惨)を倒す上で重要な戦力となりうる人物である柱・煉獄杏寿郎が(少なくともその時点では)戦力として未熟な主人公達を「若い芽は摘ませぬ」と言って身体を張って死んでゆく』構図であり両作品が対極にあることを感じた。ギャップがあり過ぎて正直ちょっと辛くなった。勿論、どちらが正しい、という話ではない。別の作品だし。

・原作を読んで煉獄杏寿郎が死ぬことが分かっててもめちゃくちゃショックだったんだけど、これ何も知らずに観に行くちびっ子とか大丈夫なのだろうか?


また加筆するかもしれませんが取り敢えず終わり。